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本田増次郎


最初に「フランダースの犬」を日本へ送った本田増次郎氏
写真:ありし日の本田増次郎氏(本田穣氏提供)
本田増次郎 フランダースの犬を初めて国内で翻訳し日本へ紹介した日高牧師が没した1956年からもう少しで50年が経ちます。日高氏の情報の入手に苦戦した私はこの初版の「清と斑」が もっと簡単に多くの人が見る事が出来たらと願い、また日高氏の没後50年目に自由に多くの人々に読んでもらえることが可能な為デジタル化を少しづつ始めてきました。その作業 でふとこの初版の冒頭に書かれたある文面に目が止まりました。

本田増次郎氏の書簡(原書に添へて山懸悌三郎氏へ贈られたるもの)
数箇月前ウイダ貧窶の中に伊國に客死せり英國政府が彼女に與へたる年金の大部は、そが愛養せる犬猫の食料に費ししと云ふ其の死するや病床に侍して哀別の誠を致せるもの寔に 一忠婢と幾頭の犬猫のみなりき。「フランダースの犬」と題せる一篇はウイダが傑作の一として人口に膾炙せり優に日本君子國人の感興を牽くにたるべし。千九百○八年 米國 ニユーヨークに於て

と普段あまり気にしないで読んでいた冒頭の文面に歴史的に非常に貴重な文面であると気付きました。日高氏が日本で始めて「フランダースの犬」を翻訳したのであれば誰が何時何処 で原文を知ったのか?それとも日高氏自身が海外で原文を入手したのか?そのルーツを探していた所に”灯台下暗し”とはこの事で、この「本田増次郎氏の書簡」によれば彼が恐らく 日本に物語の原文を送ったのだろう・・・ただ送ったのは山縣悌三郎氏であり、それでは何故日高牧師へと伝わったのか?

日高善一牧師本田増次郎氏山縣悌三郎氏、この3名の名が名作「フランダースの犬」が日本へもたらされたキーワードとしてパズルを解いていく為には 非常に重要なピースである事は間違いないのでした。そして更に探求心をそそられる理由として彼らが皆明治の男たちであり、その魅力的な人格は調べる前から伝わって来るような気 がしました。



本田増次郎氏岡山にて産まれる、そしてハンナ・リデル氏との出会い

「増次郎は大の犬好きだったようですよ」(長谷川勝政氏談)本田増次郎氏の兄竹四郎の曾孫であり同氏の研究でも知られる長谷川勝政氏、冒頭の会話でこのお話をお伺いしたとき早くも何か を予感させるものがありました。

本田増次郎氏は1866年1月15日(旧暦:慶應元年11月29日)に岡山(現在の中央町)にて本田杢蔵(父)・やゑ(母)の三男として産まれました。本田増次郎氏は17歳の 時(1883年(明治16年)10月1日)に弘文館(嘉納治五郎主宰の英語学校)へ入学、3年目からは夜間東京物理大学(現・東京理科大学)へも通った。憧れの英語を学びつつ 途中増次郎氏は23歳の時、腸チフスになり一時危篤となる。そして翌年婦人宣教師(アルドリッチ嬢、ペリー嬢、ストアラー嬢)から英文学を学び前年の命をを失いかけた経験と英 文学からの影響か増次郎氏24歳の時に日本聖公会東京聖三一教会堂にて受洗しクリスチャンとなった。

ハンナ氏・リデル氏 そして本田増次郎氏は彼の人生に多大な影響を与えたハンナ・リデル女史(1855.10.17-1932.2.3)との運命的出会いがあった。(増次郎氏27歳)イギリスから宣教師として来日した ハンナ・リデル女史は日本におけるハンセン病患者の救済に人生を捧げた先駆者であり当時男性宣教師にも引けを取らずハンセン病患者救済に邁進した姿に、当時の増次郎氏は多大な影響 を受けた事を本人自身も後に述べています。

また熊本にリデル女史が作ったハンセン病患者の為の医療施設「回春病院」の設立に増次郎氏もハンナ女史と共に働き、この回春という名前も「また再び春が来るように」との思いを込め 施設の名付け親に増次郎氏はなっています。リデル女史の弱者に対する愛情や差別を受けた人々への救済に多くの苦難をもろともせずに邁進するこのイギリス人女性から増次郎氏は多くの 事を学び後の彼の行動に大きな影響を与えたのだと思われます。

そしてこの回春病院が設立された1895年と同年に「初版:フランダースの犬」を発行することとなる出版社:内外出版協会が山縣悌三郎氏により設立されます。この山縣悌三郎氏は動 物好きでもある増次郎と共に動物虐待防止会も設立(1902年6月)、次第にフランダースの犬との運命の出会いに近づいてきます。

K.Oshima 2/July/2004


アメリカへの旅立ちと日露戦争

写真右端が本田増次郎氏1908年撮影(本田穣氏提供)
本田増次郎 本田増次郎氏は明治38年(1905)7月17日に職を休職しアメリカへ留学をします(ポーツマツ条約直前)。増次郎氏は日本国内での英語教育が評価されこの欧米留学へと繋がるの ですが、どうも表向きの公表であるようで長谷川氏の研究によりますと日露戦争での日露両国の講和条約である「ポーツマス条約」において当時交渉にあたった小村全権大使の影の存在と して働きかけを行った可能性があるかもしれないのであります。増次郎氏は晩年一人娘の山本華子氏(山本有三の妻)に「僕は正式の外交官ではなく、いわば陰の外交官だ。だから側面か ら日本の外交を推進するのだ」と語ったいたそうです。これは昭和46年頃マークトウェイン研究で知られる勝浦吉雄氏が直接山本華子から聞いた言葉だそうです。今後更に研究が進み、 激動の時代をいかに本田増次郎氏が生き抜いたか私自身非常に興味のあるところでもあります。

そして本田増次郎氏は卓越した英語能力と彼自身クリスチャンであり欧米人との文化的にも相互理解に役立ったであろう彼の生い立ちは複雑な関係が絡み合いながらも次第にウィーダを知 る運命の時が近づいてきます。

来年で日露戦争のポーツマス条約から100周年を迎えます。百年の時を経てフランダースの犬と日本の歴史上極めて重大な変動の時が増次郎氏を通じてつながりがあることに本当に驚き ました。今でも増次郎研究で知られる長谷川氏との熱い会話を思い出します。



1908年1月25日(明治41年)イタリアにて貧窮の末ウィーダ死す

写真をクリックすると拡大が見れます
New York Times 1908年、ウィーダが没する年に本田増次郎氏はニューヨークに滞在していました。日露戦争は既に終わり後に話題を呼ぶ著書「肉弾」の英訳を本田増次郎氏は行い優秀な英語能力 は日本の著書を海外へ広め、また彼が英文を読み日本へ送った行為はまさに彼自身が日本と海外を結ぶ交流点だったのかもしれません。その増次郎氏が海外から日本へ導いたのが正に この「フランダースの犬」でありました。ウィーダの没する1908年1月25日、翌日の26日にはニューヨークタイムスに大きく(写真参照)取り上げられ貧窮の中イタリアで没 した記事がそこにありました。自分の食事もとらず大切な犬や猫にえさを与えたウィーダの死は大の犬好きであった増次郎氏にはどう映ったのでしょうか?

恐らくこの記事をきっかけに増次郎氏は英文のフランダースの犬を読んだのでしょう。ウィーダの死を知り日本にいる内外出版:山懸悌三郎氏へ送った内容を再度記載します。この箇 所は最初当時大学生だった鈴木和枝さんから頂いた日本最古のフランダースの犬の原文を読み、ふと気にかかっていたところでした。丁度パズルをしているときに、なかなか合わない ピースを心のどこかに記憶しているようにふとパズルが解けた途端様々な人々が時代を超えて語りかけてくるようなそんな気がしました。

本田増次郎氏の書簡(原書に添へて山懸悌三郎氏へ贈られたるもの)
数箇月前ウイダ貧窶の中に伊國に客死せり英國政府が彼女に與へたる年金の大部は、そが愛養せる犬猫の食料に費ししと云ふ其の死するや病床に侍して哀別の誠を致せるもの寔に 一忠婢と幾頭の犬猫のみなりき。「フランダースの犬」と題せる一篇はウイダが傑作の一として人口に膾炙せり優に日本君子國人の感興を牽くにたるべし。千九百○八年 米國 ニユーヨークに於て

K.Oshima 12/December/2004



美しい物語を取り入れた明治という時代

本田増次郎が生きた明治という時代は明治維新という大きな時代の変化の中西洋の技術を積極的に取り入れた時代でもあり西洋から「技術」を取り入れた時期でもあり、同時に増次郎 はフランダースの犬という西洋の「文学」を日本に取り入れた事はとても重要な点であります。まだ国内で知られていない背景もあり主人公ネロ=清(きよし)、パトラッシュ=斑(ぶち) と受け入れやすいように配慮したおかげもあり後に爆発的に日本人の中へ浸透して行きました。

今日の日本では親から子へと代々この物語は受け継がれていたり、また学校での教育や様々なメディアを通じて


K.Oshima 5/June/2005

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